STORY
STORY 01
デリーの創業者、田中敏夫は、富山県の味噌・醤油などを扱う食品会社に生まれ、35歳で佃煮の製造販売を行う田中食品工業を設立しました。しかしながら、時代とともに食文化が変わり佃煮の製造が斜陽産業になったため廃業、7年後に閉鎖することになります。
戦前、創業者は商社マンとしてインド、パキスタン、スリランカに長年駐在し、油や石鹸の原料となるコプラ(椰子の固形油脂分)の国内輸入を行っていました。閉鎖の失意の中、インド駐在時にメイドさんや友人宅で食べていたおいしいカレーを思い出し、「あのインドカレーを日本に紹介しよう」と一念発起した創業者は、佃煮を作っていた料理人と共に、インドから取り寄せたスパイスを使い、当時食べていたカレーを再現するために試作を重ねました。
そして、昭和31年、デリーを創業することになります。デリー開店後も、生来の研究熱心さで、インドの料理学校やレストランで、調理を学び続けています。デリーのカレーは、インドの味だけではなく、創業者が和の食品作りに携わっていたことによる技術やアイディアが取り込まれた、唯一無二のオリジナルカレーとして誇れるものとなったのです。
STORY 02
しかし、上野店がオープンする1年前の昭和30年、創業者・田中敏夫は結核のため入院し、3年間の療養生活を余儀なくされます。
その間、経営全般については妻・やす代が全てを引き受けました。
療養後、敏夫はさらなるインド・パキスタン料理研究のためインド国立料理学校に入学し、その間すべてを任されたのもやす代でした。店舗の切り盛りとサービス、経営の陣頭指揮まで、この「内助の功」なくして、現在のデリーの存在はありません。
STORY 03
昭和31年2月28日現上野店所在地において個人営業を開始しました。
当時カレーハウス・デリーと称しカレー粉をまったく使用しないインド現地の民族食、カレー料理を提供する唯一の店として発足しました。
デリーという社名は歴史上、様々な王朝が立ち、イギリスの植民地の中心でもあり、独立後も首都である、デリーという首都名から取りました。
当時の日本人はインドと言っても、デリーという名称くらいしかなじみがなかったので、デリーという名前にすれば、インドのカレー屋だとすぐわかるだろうと考えたからです。社名と同様に、インドの地名から名づけたカレーが多いのもデリーの特徴です。
開店2~3年後からデリーの店の前には、大手商社や銀行からの黒塗りの車が多く止まっていて注目されたり、近くの東大の教授の方々、はたまた落語家さんからも支持されていました。上野店は、今でもデリーファンの聖地として、創業当時そのままの趣で、お客様に愛されています。
STORY 04
その後、カレーのみならず、インド・パキスタン料理を提供するレストランとして、六本木、軽井沢、新宿、銀座、船橋とレストランを展開していきました。
また、創業者の強い希望で、デリーのカレーを家庭に運びたいということから、埼玉にてカレーの製造を中心とする工場を設立しました。展開した店舗も製造卸売業拡大により、直営レストランを銀座店と上野店の2店舗に集約しました。
その後平成19年3月に六本木ミッドタウン店をオープンし、3店舗となりました。(令和3年5月閉店)
現在、デリー直営のレストランは2店舗ですが、実際には暖簾分けしたレストランが多数あります。
これは、創業者が、デリーで修行したコックが地元で開店すれば、デリーの味が広まると考え、独立開業を支援してきたからです。
デリーと同じメニューを掲げる者はデリーと名乗り、自分の個性をプラスした者はそれ以外の店名で頑張っています。
STORY 05
創立当初から、インドの味を損なわず、日本の風土、日本人の味覚に合ったカレー、毎日食べても飽きないカレーを提供してきました。
流通技術の発達により、創業当時よりも、より香り高く新鮮で均一感は増していると思います。
今後も、レストランと家庭で召し上がる工場製品を両輪に、創業の精神である「日本とインドの食の架け橋」となるように、より多くの方にデリーの味を知っていただくよう、研鑽していきます。